KATALOG WEBをご覧のみなさん、こんにちは。歌う広報、澤田です。
「cocoroさんは、なぜ歌を歌ってるの?」そんな問いかけをいただき、
音楽活動10周年を迎えた今年、あらためて私の音楽人生を振り返ることにしました。
都会での暮らしに疲れ、逃げるように四国の山奥に行った私が
音楽で生きていくことのヒントを得て
再び東京で再チャレンジしていくまでの軌跡を書きました。
七転び八起きの私のヒストリーに興味を持ってくださる方は、どうか最後までお付き合いください。
※ ※ ※
なぜ音楽の道を志すようになったのか。
理由はとてもシンプル。
色々なことを失った先に残っていたものが「音楽」だったから。
特別、秀でた才能があるわけじゃないけど
自分の中で一番好きで得意なことが「音楽」だったから。
私は、シンガーソングライター。自身のオリジナル曲を「サプリソング」と題して、
今は関東と四国を拠点に全国各地でピアノ弾き語りをしながら生きています。

でもそこに至るまで、決して平坦な道のりではありませんでした。
大人になってから、挫折ばかりの人生で。
まるでジェットコースターみたい。
もうすぐで届きそうだった夢が、真っ逆さまに転げ落ちてゆく。
Contents
第一章「背伸びしていた日々」
私は学生時代を経て、小学校教師になった。
元々は音楽の先生になりたかったけれど、一般級の担任を持つことになった。
国語も算数も理科も社会も苦手だったのに・・・
そんな勉強が苦手な私が先生になってしまった。
有難いことに、子どもたちには好かれていたと思う。

でも、その状態を貫くために子どもたちの期待に応えたくて必死に背伸びし続けた。
自分で終わりを決めなきゃいけない仕事だったけれど、
納得いくまでやらなきゃ気が済まなかった私は、毎日ほぼ16時間労働。
そんな生活をしていたら、当然身体も悲鳴をあげてくる。
そしてついに、身も心も動かなくなってしまった。
当時、6年生の担任をしていたけれど、
大事な修学旅行に一緒に行けなかったのは今でも悔いが残る。
でもその休みをもらった期間は私にとって大切な時間だった。
そのとき心から悟ったことは、
「背伸びせず、自分の得意なことで生きていきたい」ということ。
自分の中で唯一、得意なことは音楽だ。
勉強は苦手だったけれど、音楽を通じて子どもたちと関わるときは、
背伸びせず、自分らしくいられる。そんな時間が何よりも心地よかった。

先生という仕事はやりがいがあったし、嫌いな仕事ではなかったけれど
このままあと40年背伸びし続ける人生から自分を解放しようと決意した。
「先生も先生を卒業して、シンガーソングライターになります」
卒業式の日、私は子どもたちの前で宣言した。

第二章「変わりたいともがき続けた」
その後、ご縁があったベンチャー企業で働きながら音楽するという生活が始まった。
でも、あまりにも世間知らずな私は、その会社で全く使い物にならなかった。
ある程度小学校で働くことに自信を持っていたつもりだったけれど、
一歩外に出た瞬間、「なんて自分は使えない人間なんだろう」と自分に幻滅した。
忙しすぎて、結局帰りは23時過ぎ。全く音楽をする余裕すらなく、O Lを挫折。
まだ荷解きもできてないダンボールのまま、実家に帰ることになってしまった。
そのまましばらく引きこもりになった。すっかり自信を無くした私だったけれど、
「働かねばならぬ」という呪縛が毎日襲いかかってくる。
求人サイトを眺めては、ため息の繰り返しで、何がしたいのかわからず、どれも選択できなかった。
ネットサーフィンを繰り返す中で偶然見つけた一つの記事。
そこに書かれていたのは、
「前向きに立ち止まりませんか」
「自分の人生、自分で決めませんか」
そんなメッセージだった。

「神山塾」という徳島県神山町という田舎で仲間と寝食をともに過ごしながら自分を見つめ直す。
そんな塾の募集だった。
直感で「これだ!」と思った。
縁もゆかりも無い場所でゼロから人生をやり直したい。変わりたい。
藁にもすがる思いで応募し、そのチャンスを得ることができた。
第三章「自分を取り戻した半年間」
自己肯定感が全くなくなっていた私は、そこで出会った仲間に、
先生だったことも、音楽で生きていこうとしていたことも、
しばらくは黙っていた。とにかく、真っ白な自分になりたかった。
徳島という田舎町での生活は、これまで都会で生きてきた私にとって、とても刺激的で毎日が充実していた。

都会の中では、「今自分がここからいなくなっても、誰も気づかないだろうな」という
自分の存在のちっぽけさを感じていたけれど、
田舎では、「自分は今この場所で生きている」という感覚を与えてもらった。
見守ってくれる地域の人々の温かさに触れ、私は元気を取り戻していった。

農業体験をしたり、地域のために自分達ができることを考えてイベントを企画したり。
大人になって、価値観の違う仲間と協力し、時にはぶつかり合う中で、いい意味で他人と比べながら集団の中で自分にできる得意なことを見出していったような気がする。

約半年間の塾を卒業し、私は移住して個人事業主として働くことに決めた。
第四章「得意なことで生きていけると思ったのに」
どんな事業か。簡単にいうと地域のカルチャースクールのような居場所を創ることだった。
カラオケBOXを持つオーナーさんと出会い、その場所を貸してくださるということで話がトントン拍子に進んでいった。
「音楽」×「教育」
私のこれまでのキャリアを全面に活かせる絶好のお仕事だと思った。

「梅星楽校」と名づけ、ウクレレ教室をしたり、地元のミュージシャンを集めてミニライブを開催したり。地域の方々と交流の場を創ることができた。

しかし、それだけでは収入的に生活するのが難しく、自分で仕事を創ることの難しさを痛感した。発達支援センターで出張音楽教室をやってみたり、個人宅でピアノやフルート教室をしてみたり。休みもなく忙しく働いた。

その上、ラジオのお仕事のチャンスもいただいた。
シンガーソングライターにとって、知名度を上げるのにとても良いお話だった。
朝番組だったため、朝5時に起きて出勤するという生活が始まった。
2秒、間が空いたら放送事故と言われるラジオの世界でのプレッシャーは私にとって大きく、前日の夜は眠れない程、緊張していた。でも絶対に蹴りたくないお仕事だった。
「あれ、これでは働きすぎていたあの頃と同じパターン!?」
得意なことで生きていければ、背伸びせずある程度ゆとりを持ったライフスタイルを送れるだろうと思っていたのに、結局また同じことを繰り返す。私はまた身体が思ったように動かなくなってしまった。昔と同じ壁を乗り越えることができなかった。
せっかく見出せた自分の新たな道。それを手放さなければいけない状況になり、本当に辛くて悲しくてどうしようもない気持ちだった。
「このまま消えていなくなりたい。」
何度もそう思った。
ボロボロになった私は、また地元の横浜に戻りゼロからやり直し。
せっかく徳島で築き上げてきたのに・・・
第五章「やっと見つけた私らしい生き方」
それを見かねた、神山塾の塾長が「うちで働かないか?」と言ってくださった。
もう徳島には顔向けできないと思っていたから、本当に嬉しくて有難い話だった。
私は、おかげでまた社会復帰ができた。そこから今は、横浜と徳島を行き来しながら
株式会社リレイションの「歌う広報」としてシンガーソングライターをしながら二足のわらじで働いている。
途中、コロナが蔓延し、音楽活動ができなくなりかけたが、そんな中ライブ配信という世界に出会うことになる。オンライン上で自分の歌を披露し全国各地からリスナーの皆さんが集まる画期的なツールだった。

新たな可能性を感じた私は、その配信アプリの世界にのめり込んだ。
アプリ内は順位を競う競争社会で、長く配信すればするほど、スコアや順位が上がるシステムだった。
最長で一日10時間配信したこともあった。

何度も失敗してるのに、ついつい過剰適応してしまうのは私の悪い癖だ。
それまで、ほぼ毎週やっていた配信だったが、心と体のバランスを崩し、
突然配信の世界から姿を消すことになった。
ジェットコースターの人生。
せっかく築き上げてきたもの、人との信頼など、あらゆるものが手のひらからこぼれ落ち、いつも結局空っぽになってしまうそんな自分に嫌気がさした。
でも今回は違った。
何ヶ月も休んでいた私をリスナーの皆さんはずっと待っていてくれた。
そして、私を雇ってくれている塾長も当時の社員さんも変わらず待っていてくれた。
「こんな自分でも必要としてくれる人たちがいる」
それだけで強くなれる気がした。今度こそ、もう同じ過ちはしたくない。
競争社会から逃れ、今はマイペースに音楽活動を続けられている。
音楽で繋がったたくさんのご縁。

そのおかげで、新たなコミュニティー「ココファミ」ができ、リアルなライブでもメンバー同士で顔を合わせるような温かい関係を築くことができている。ココファミは、私にとってなくてはならない宝物のような存在だ。
皆さん、生きている環境も年齢も違うけれど、それぞれが抱えている想いに共感し合いながら、オンライン上とはいえ、これまでたくさんの時間を音楽を通じて共有してきた。
このかけがえのない輪をもっと広げること。それが今の私の夢です。
※ ※ ※
第五章まで長い私のストーリーをお読みいただきありがとうございます。
このように、私の人生は挫折の連続。
その度に、「こんな自分は価値がない人間だ」と自分を否定しては責め続けた。
けれどそんな時、また誰かが手を差し伸べてくれて今がある。本当に感謝しかない。
どんなに失敗しても、立ち上がる勇気を持って。「自分に生まれてよかった」と思いたい。
そして、同じくそう思える人が増えたら世の中はもっとハッピーになるはずだ。
誰でもきっと、何らかの傷を抱えながら生きている。
だからこそ、私の音楽で少しでも心が軽くなるきっかけを与えられるなら
それほど幸せなことはない。
これが、私が音楽を続けている理由です。
これからも、命ある限り、誰かの心に寄り添えるような歌を
歌い続けていきたいと思う。
そして、わたしの使命として、どんな状況の中でも
自分の人生をあきらめないで生きていくことを体現していきたい。
「あなたの心にサプリソングを。」

この記事を書いた人
澤田千尋
横浜スタッフ。神山塾9期を経てRELATIONの歌う広報担当。地域のよさや出会った人たちの魅力を発信しながら、これからの時代を生きるためのヒントをお届けします。シンガーソングライターとしても活動中。RELATIONと共に全国ツアーするのが夢!
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